東洋活性白土2号機がまきば線にやってきた その2

きっかけとなった5月27日の蒸機運行
東洋活性白土2号機(通称:くろひめ号)がまきば線に来ることになった発端は、5月27日の蒸機運行日に遡ります。
2号機の展示を行う「大鉄道博覧会」の事務局をされているYさんという方が、この日、まきば線をご訪問されたのでした。
Yさんは、もともと鉄道の保存活動にも携わった経験があり、以前からわたしたちの活動にご興味をお持ちだったそうです。そしてこのときも、お知り合いでちょくちょくまきば線にいらしている鉄道ライターのSさんから「27日ならまきば線の蒸機運行日ですから一緒に見に行きましょうよ」と強くお誘いを受けたそうです。
Yさんとしても、この日はたまたま「大鉄道博覧会」の事務局として千葉方面に用事があり、別に何か考えがあったわけではないそうなのですが、ちょっと早起きして、成田の奥のまきば線まで足を伸ばしたのでした。
そのころ、Yさんは「大鉄道博覧会」の事務局として、そこで展示される様々な展示物の準備のため、精力的に動き回わられていました。東洋活性白土2号機もその展示物のうちの一つでしたが、Yさんとしては他の展示物に対して2号機が少々くたびれていることが気がかりだったそうです。
東洋活性白土2号機は、屋根の下に保管し、運転室には扉をつけていたとはいえ、屋外保存の宿命で、やはり25年の間に塗装も劣化し、車体のあちこちにはサビなどで穴が開いているような状態でした。一方、他の展示物はほとんどが鉄道会社や鉄道ファンの方々が大切に保管されているもので、大変状態のいいものばかりです。また2号機と同時に展示される小型蒸気機関車「下工弁慶号」もつい最近まで火が入っていた動態保存機でありピカピカです。
これではせっかく2号機を糸魚川から持ってきても、他の展示物に対してバランスが取れないのではないかと、危惧されていたそうです。

糸魚川小学校で展示中の2号機
5月27日、Yさんがいらしたまきば線では、3号機を使用して蒸機列車の運行を行っていました。そしてわたしたちが古い蒸気機関車を整備しながら運行している状況をご覧になったYさんは、お悩みだった2号機の展示前整備についてわたしたちにアドバイスを求められたのでした。
一方、わたしたちも「東洋活性白土2号機が東京で展示されるらしい」ということは知っていましたが、どのような経緯かは全く知りませんでした。
ご存知のとおり、わたしたち羅須地人鉄道協会は、その黎明期には、東洋活性白土専用線を活動の舞台としていました。そして、2号機の機関士でもあった松沢運輸課長はじめ東洋活性白土(株)のみなさんには、蒸気機関車の整備をはじめ、様々なことでお世話になっていました。そして糸魚川市のみなさんもそのような活動を温かく見守っていただいたのでした。
糸魚川市の皆さんをご招待して、毎年5月に行われた羅須地人鉄道協会の運転会では、わたしたちの機関車と共に、2号機も一緒になって走らせていただき、ご招待した皆さんに喜んでいただいたものでした。このようなこともあり、2号機には大変強い思い入れをもつメンバーが少なくありません。

東洋活性白土専用線での2号機(右)と
羅須地人の3号機・6号機(昭和57年)
このような思い出を持つだけに、今回、わたしたちのところに2号機のご相談が持ち込まれるということについては、正直、奇妙なご縁を感じました。もちろん、わたしたちはあくまでもアマチュアですので、できることは限られます。しかし羅須地人鉄道協会にとってゆかりのある機関車が困っているのであれば、できるかぎり協力するのは、2号機や松沢さん、そして糸魚川市のみなさんにお世話になったわたしたちの責務ではないかとも感じていました。
そのような想いが根底にあるためか、Yさんへのアドバイスは、気が付くと「2号機をまきば線で整備できたらなぁ」という話になっていたのでした。
そして実際に蒸気機関車を運用している状況をご覧になっているYさんのほうでも、お話をしていくうちに「羅須さんで整備していただけるものなら、ぜひお願いしたいなぁ」というお話になっていったのでした。
もちろん、この展開はYさんも予期しないものでしたから、まずは所有者である糸魚川市、そして主催者の江戸東京博物館がOKを出すか、そしてもう会期まで1ヵ月半しかないこの状況で、まきば線に持ち込むスケジュールが確保できるかどうか、全くわかりません。
ということでこの日は、Yさんのほうで調整していただくということで終わりました。
その後、Yさんは、わたしたちの気持ちが伝わったのか、2号機のまきば線での整備に向けて、精力的に動いてくださいました。Yさんの2号機を思う熱意に、ほどなく所有者の糸魚川市および主催者からは羅須での整備にOKを出していただくことができたのでした。
しかし、問題はまだあります。会期は迫っており、スケジュールの変更が容易ではなかったのです。糸魚川小学校からの搬出日はもう決まっており動かすことができません。一方、展示のための会場への搬入も、機関車を先に入れないことにはその他の展示物が配置できないということで、早めの搬入が必要でした。そのスケジュールの中では、まきば線に搬入することはできなくはないものの、搬入日の翌日には搬出しなければならない日程しか組めません。これではせっかくまきば線に持ち込んでも、できる整備はずいぶん限られてしまいます。
Yさんはその後もぎりぎりまで粘り強く調整を続けられました。そして様々な方のご理解・ご協力もあり、ようやく6月23日搬入、7月1日搬出の9日間滞在という日程をひねり出したのは、まきば線搬入のわずか5日前、6月18日のことだったのでした。
あの日、鉄道ライターのSさんがYさんを誘わなかったら、そしてYさんに千葉方面での用事がなかったら、Yさんはまきば線にいらっしゃることもなく、東洋活性白土2号機のお話もなかったでしょう。
きっかけはほんの偶然だったかもしれません。しかし、その偶然を偶然で終らせないために、Yさんをはじめとする様々な方が、2号機を何とかしてあげたいと、気持ちを一つにしてご尽力くださいました。
そのおかげで、わたしたちはまきば線で東洋活性白土2号機と久しぶりの対面を果たすことができたのでした。
さらに続きます
この記事へのコメント
うちのコレクションも大鉄道博覧会に
貸し出ししました。
もうすぐ始まりますね、展示がたのしみです!
記憶が欠落する年齢です(汗)
っていう話は置いておいて、上の写真、よく見ると、Iマタ氏が記念撮影
しているので、いったい誰が山の上から撮ったんでせう?この辺はさすが
に元けむりや元汽車クといった血筋でしょうかねえ。
先日、糸魚川に大地震ありまして、心配してます。
松沢さんのご子息は役場勤めなので、てんてこ舞いなことでしょう。
当時お世話になった方への被害も気になります。
あれだけお世話になった糸魚川への恩を忘れるなよ、という何かの
力が働いたのかと、2号機の上京?と併せて、30年前の想いを再確認
させられた週末でした。
大蒜たっぷりの「もつ煮」ととれたてのはまちの刺身とビールの贅沢な昼飯
でした。
集合写真のカメラマンがiマタ氏とは気がつかなかった。
山の上のオクラはおいらでした。雑種で残念!
KR64は退色も少なく多少の修正でご覧の程度です。
同時代のエクタはほぼ全滅。黄色が濃くなって
おまけに紙マウントがすぐ分解します。
撮影したこの山は廃止直前に出来た残土か廃棄物の山だったような。
工場の建物の取り壊しも始まっていたような記憶です。
となりで所沢の齋藤さんが撮影していました。
顔らしくて安心?しました。思い起こせば、当時もゲソだか親鮫だかでABC
などなど、学生さんは個性豊かに呼び合ってた様な記憶もあります。
天Qはまんまの読み方でしたが(笑)
所沢の齋藤さんは、台湾から拉致した遊園地コッペルにお熱でしたねえ。
ま、今となっては、あそこに軽便蒸気が走っていたこと自体、昭和時代の
夢のようで、(行ってませんが)活白跡地もそうなんでしょうな。
そうそう、活白で野球やってた人もいましたね。
山田食堂(と双葉荘)はまだあるんでしょうか?